推し活修行 ~田中圭さんを深く静かに推す~

映画・演劇・本(乱読)が好き。田中圭ファン。圭モバプラチナ会員。

「夏の砂の上」(兵庫)

11月27日、待ちに待った「夏の砂の上」兵庫公演を観た。東京で一回観たのに、凄く待ったような気がする。

兵庫の芸術文化センターは世田谷より大きいので、あの芝居は成立するのかと少し心配したが、客席の水を打ったような静けさは変わらずだったので、杞憂に終わってホッとした。世田谷パブリックシアターでは一階の後方の席だったので細かい表情が見えず、今回の前方の席で観て初めてわかったこともあった。芝居は日々成長していくものだが、やはり深みというか味わいが増していた(演技派揃いのキャストは最高だ)。兵庫公演が済んだら纏まった感想が書けると思っていたが、自分としてはこれほど感想が書きにくい作品は珍しい。大好きだからこそ、簡単に主人公の心情をわかったようにまとめてしまうことに抵抗がある。

主人公の小浦治は寡黙な人である。大切なものを順番に失っていきつつも大仰に嘆いたり愚痴ったりしない。事前の予想ではもっと鬱屈した人なのではないかと想像していた。しかし、鬱屈を感じたのは彼が妻と同僚の陣野との不倫を疑っている間だけだった。人を疑うという行為は、自分自身の中にモヤモヤと処理しきれない感情が溜まるからだ。しかし、その不倫が疑惑から現実のものへと移行すると、彼の表情は諦感のそれとなる。生きながら死んでいるような、いや、常に苦笑しているような。そう、この微かに笑っているという表情が、東京では見えなかった部分なのだ。よく、不幸続きの人が「なんか、もう、笑うしかない」と自虐的に呟くのと似ている。それを観たとたん、私はたまらなくなった。

我が子の死、失職、妻の家出、仲間の死、そして妹が無理矢理預けて行った16歳の姪。納得できなくとも全て呑み込んで無理やり体の中に押し込むしかなかった男の丸い背中。今まさに他の男と旅立とうとする妻に、名物のあんパンを買って食べろと強引にすすめる哀しさ。心置きなく出ていけるという最終宣告のような言葉を残して妻が去った後、彼は泣いていた。その時、涙ぐんだ目でうっすらと笑った、ように見えて、凄い芝居をするなぁと今更ながら感心した。「わたし、おじちゃんと一緒ならどこだって行けるよ」と告げる優子の声が震え、彼女の潤んだ瞳もきらきら光っていた。16歳の少女にそう言われても、治は「うん」とは言わなかった。どこにも行けない男と、留まることを許されない少女のやるせなさが見事に重なりあった瞬間だった。

栗山さんの目に役者田中圭はどういうふうに映っているのだろう?じっくりと聞いてみたい気がする。誰もが予想しなかった選択に感謝すると共に、次作も是非にと願わずにはいられない。